道徳人物教材の活用の実際―廣池千九郎著『新編小学修身用書』の場合―

1.『新編小学修身用書』とは
 廣池千九郎(法学博士、モラロジーの創建者)が、小学校の訓導として教壇にあった22歳の頃の著作に『新編小学修身用書』全3
巻がある。幸いモラロジー研究所で復刻されて読むことができる。改めて巨人廣池千九郎先生の面目を思う。


 本書は、もともと「口授書」として編まれたものである。「口授」とは、教師が子供に話して聞かせることで、そのための言わばネタ本である。子供に直接持たせる教科書ではない。教師に向けたネタ集といってもよい。明治21年の頃であるから、当然文語で書かれ、格調高い名文である。音読するとその格調が舌頭に遊んで心地よくすがすがしい。


 まず巻一からその一例を引く。

 

第10 わが身栄ゆるに至るも人の恩を忘るべからず

 

 鈴木才治は、伊予国宇摩郡天満村の人なり。力、あくまで強けれども、性質、至って優しくして、人を敬し、己を謙す。
 18歳のとき、思えらく「わが身は三男のことなれば、家にありて別家をなすなどは、ただ父母の憂いを増すのみなり。しかず、独立の生活をなさんには」と。父母に請うて大阪に来たり、永楽伊助という者によりて、ついにその家の召使となる。
 すでにして伊助等の周旋により、時津風藤八という力士の弟子となり、早瀬川と号す。もとより膂力、非凡なれば、三府九州、至るところにて、しきりに勝ちを取りしかば、はじめ2円50銭の給料より15円に上がり、たちまち関取の員に入りたり。
 しかるに、才治はこれをもって皆、伊助夫婦の庇蔭なりと喜び、暇のときは常にその家にありて家事を手伝いおりしが、伊助の妻は不図、病にかかり、はかなく世を去りければ、あたかも慈母を失いたるがごとく嘆き悲しみ、その後とても、ひたすら伊助を慰めつつ、なおその家事を助けければ、これを見聞する者、感ぜぬはなかりしという。
 ○伊予国=現在の愛媛県。
 ○すでにして=そうこうしているうちに。
 ○周旋=当事者の間に入って取り持つこと。斡旋。
 ○膂力=腕などの筋肉の力
 ○不図=図らずも

 

 各巻ともざっとこのような50話が紹介されているが、その形式はほぼ同一である。


 冒頭で姓名と居所が語られる。次にその人の特長が簡潔に述べられ、その人物のあらましが分かる。


 以後はそれを分からせる具体的な事例やエピソードが語られ、最後にその人物の業績がまとめられて終わる。


 どの話も1、2ページでまとめられ3ページに及ぶものは稀である。使われている言葉にはかなり難しいものがあるが、ストーリーは明快で誰にもよくわかる。


 また、題名は人物の道徳的特質を教条的に示して端的である。前掲の「第10 わが身栄ゆるに至るも人の恩を忘るべからず」がそれを証していると言えよう。

 

2.鈴木才治の逸話
 さて一編の内容を見ることにしよう。強い力の持主であったが優しい心の持主でもあり、人を敬い、己を慎しむ人だったと語られる。

 

 18歳になって考えたのは、自分は三男坊なのでこのまま家に居たのでは父母の負担になるだろう。独立してやってみようと考え大阪に出る。


 永楽伊助宅に召使いとして入り、よく働いたのであろう。見込まれて力士の弟子入りをすすめられ、もともと力持ちであったので出世を重ね、関取の地位を得る。


 人物教材を扱う時のポイントの一つは、岐路の選択にある。人生は岐路の連続であるとも言える。そして、岐路に立った時にどの道を選ぶかが、その人の品位を決めることになる。


 名もない身分の者が関取と言う名誉な地位を得た、ということ自体が一つの岐路である。才治は、その原点が永楽家の恩にあることを忘れない。その恩義に報いるべく、暇を見つけては永楽家を訪ね、持ち前の大力を発揮して「召使い」の仕事に精を出す。ここが道徳教育として肝要な一点である。


 やがて、永楽家に思いがけない不運が舞いこむ。御主人の妻の病臥と他界である。永楽家の悲嘆はどんなに大きかったことか。


 才治は「我が母を失ったように嘆き悲しむ」とある。それからは、もと御主人の悲嘆を慰めて「なおも永楽家の家事を助けたので、これを見聞する者、感ぜぬはなかりしという」と結ばれる。

 

3.本物の道徳教育の具現
 人としてどのようにすべきか、ということを明快に、深く確かに、子供たちの心に刻みつけることが道徳教育である。「どのように生きるべきか」ということを具体的に分からせるのが「人物教材」であり、「伝記」である。玉川大学の小原國芳先生は「子供にはたくさんの価値ある伝記を読ませよ」とよく言っておられた。文部科学省の新編『私たちの道徳』には、多くの人物教材がとり入れられたが喜ばしいことだ。

 

 さて、人物教材を扱う場合に留意すべきいくつかを述べておきたい。
 

 第一は、教師自身がその生き方に心を打たれ、惚れこむことだ。教える者が心を打たれもしない人物を子供に出会わせるのは虚しい。
 

 第二は、その人物の「どこを学ばせるか」を明確にすることである。伝記人物、あるいは登場人物の全てを学ばせ、真似させることなど到底できはしない。その生き方のこの部分こそは自分にもとりいれられるぞ、と思わせられるか否か。そこが肝要である。
 

 そして、その「学びの部分」は単純明快であることが必須条件である。その点で廣池先生の人物教材は実に分かり易く、格調の高い文章となっている。
 

 現在、小中学校に普及している副読本の登場人物は、これといった特長、個性に乏しい。単にできごとや言動が現象的に描かれているだけで物足りない。廣池先生の紹介している人物はその身分や上下を問わず、いずれもひとかどの哲学、信念、信条を持って登場している。説得力があり、魅力に富んだ人物だ。
 

 本物の道徳教育とは、その教育を受けた者の心にある生き方が具体的に、しっかりと、強い印象を持って受け止められることである。教師の心を動かした人物が、教師の熱をこめた語り口によって子供に届けられ、子供らは襟を正して傾聴し、受けとめる。そういう授業を広めていこう。

<NO. 144 平成28年8月1日発行より>

 

 

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