孝の全体像を教えよ
今日、個人主義を正義とするような議論が多い。しかし、個人主義は欧米の思想である。
東北アジアは家族主義なのである。日本人は憲法という個人主義の仮面を着けているが、その仮面を剥げば、家族主義である。
家族主義と個人主義との両者に、上下の関係はない。この理解が重要である。欧米思想尊崇派は個人主義が上と誤解している。
さて、その家族主義の根本は、孝である。しかし、その孝を道徳と理解するのは、儒教文化圏においては誤りである。儒教の孝には、道徳性と同時に宗教性があるからである。この宗教性をも教えることによって、孝の道徳性がより鮮明となる。
その宗教性の「宗教」を、私はこう定義した。「宗教とは、死および死後の説明者である」と。ふつう、宗教と言えば「崇める対象があり、教典があり、集会所がある」というような形式論を言う。ならば、儒教の場合も尊ぶ祖先があり、儒教古典があり、本家に集まる、と形式は整っている。私はそのような形式論はどうでもよかった。宗教の本質を問い続け、前記の定義にたどりついた。
儒教は、祖先以来続く〈生命の連続〉という観念によって死の恐怖を克服した。己れに子孫があれば、己れは子孫とともに生き続けることができる。となると、死の恐怖を乗り越えることができるではないか。そこで儒教は、孝を前面に大きく押し出したのである。
過去(祖先)⇒現在(親子)⇒未来(子孫)
祖先を祭ること(祖先祭祀)が第一の孝である。次いで、現実生活において子が親を敬愛すること、これが第二の孝である。さらに子孫があること(子がいないときは一族の者、例えば甥・姪を愛する)が第三の孝。
それは、宗教・道徳・生活の一体化である。そういう孝の全体像を小学校から少しずつ教育してほしいと願っている。
<NO. 146 平成29年3月1日発行より>