道徳教育の根本的な考え方

1.最重要な道徳教育

 昭和40年代に「落ちこぼれをつくるな」という言葉が全国的に広がったことがある。「落ちこぼすな」とも「七・五・三教育」とも囃された。小学校では七割、中学校では五割、高校では三割の子供の外が落ちこぼれているなどとも言われ、一つの社会問題になった感がある。

 

 私はこれに反対した。スローガンとしては分かるし、それは大切ではあるが、もともと能力に差がある以上、一定のレベルを要求する授業では、平均より上の子と下の子が生ずるのは当然であり、ずっと下の子はその時点では落ちこぼれてしまう。だから「落ちこぼれをつくるな」というのは空論妄言だと私は言ったのだが、これは大変不評と不興を買った。だが、その後、一体どこで「落ちこぼれをつくらない教育」を実現した教室があったか、一例とて報告されていない。教育界には、このようなできもしない理想論がよくもてはやされては、いつか消えていく。

 

 私の発言の真意は、「学力の落ちこぼれはやむを得ない」が「道徳の落ちこぼれは防げる」ということである。学力の落ちこぼれは世の中にとってさほど迷惑になることはないが、道徳の落ちこぼれは世の中を不安と不幸に陥れる。だから「道徳の落ちこぼれ」はつくってはならないし、これは回避可能なのだ。能力には天分、天性という壁があるが、道徳性は後天的な産物であり、教育によって育成、矯正、向上が可能だからだ。

 

 道徳教育ほど重要なものはない。教科教育よりもずっと重要である。教育基本法第一条「教育の目的」は「教育は人格の完成を目指し」という文言で始まる。「人格の完成を目指すこと」こそが教育の重要目的なのである。まずは、この一点の認識と自覚が全ての教育関係者に共有されなければならない。この認識の共有不全が、現代の教育昏迷の元凶、主要因である。道徳教育の充実、振興こそが急務なのだ。

 

2.モラロジーの教育観

 モラロジーとは、廣池千九郎(1866-1938 法学博士。モラロジー〈道徳科学〉の提唱者、麗澤大学の創立者)の造語であり、その語義は「道徳学」である。「倫理の学問」である。その目指すところは「道徳による社会浄化」であり、「道徳立国」である。モラロジーは、万人に歓迎され、万人に求められる教育の王道と言って誤りはない。

 

 私なりにまとめれば、その要点は次の通りである。

 

①心遣い重視

  形式や行動、現象を生む「心」を重視

 

②自我の制御

  不幸の根元となる私欲と利己の制御

 

③感謝と報恩

  自然と伝統の恩に感謝し、恩に報いる

 

④義務の先行

  義務をまず果たしてから権利を享受する

 

⑤利他と公益

  人様の幸せと国家・社会の益を優先

 

 まだ他にもあるだろうが、お気づきの点はご指摘をお願いしたい。これらの五点はいずれも誰にとっても、時空を超えて容認される大切な徳目と言えるだろう。これらを常に念頭に置いて指導に当たれば、まず間違いはない。先に「万人に求められる教育の王道」と書いたゆえんである。

 

 廣池の大きな業績の一つは、聖人道徳の真髄を究めたことである。これを廣池は普通道徳に対して「最高道徳」と命名したが、その内実は聖人道徳論である。諸聖人の考え方に共通する道徳上のエキスを構造化してモラロジーという学問体系を樹立したのである。

 

 普通道徳というのは世情一般に行われているもので、それらはいわば処世道徳、世間道徳、通念道徳、可視道徳である。これらはむろん大切だが、廣池が懸念したのは、その根本理念が結局のところ自我、利己、利害得失にありはしないか、ということであった。自分の都合や保身や立場上なされる道徳的行為が多く、それらの行為を生み出すところの「真の心遣い」が疎かにされてはいないか、と考えたのだ。聖人道徳は簡単に言えば「則天去私」「自我没却」「利他公益」に特色がある。ここが肝要である。これはやはり処世道徳、普通道徳には稀薄な点であろう。

 

3.道徳教育の根本的な考え方

 

 モラロジーについて学ぶと、本当にその通りだなあと深くうなずけるのだが、さてその実行、体現となると決して容易ではない。だからこそ、覚醒、確認、内省、改善のために私はモラロジー研究所に努めて出かけて学び直すのである。

 

 文部科学省では、学習指導要領の次期改訂に向けて、従来の道徳を「特別の教科 道徳」という位置づけに改めた。ここからは、道徳教育にさらなる充実にかける強い意気込みが汲みとれる。よい実りを期待すること切である。

 

 さて、道徳教育の「根本的な考え方」が明確であることが大切だが、いざ面と向かって聞かれるとずばりとは中々答えにくい。そこで、わたしなりに、この際、明示、明言してみたい。「目下のところ」と言う条件付きの上ではあるが、義務教育期間に限っての「道徳教育」の根本は、生涯に亘って不変、不動の正しい価値観の樹立ということの一点である。

 

 もっと約めてずばりと言えば「不動の元徳」の樹立ということになる。「不動の元徳」は基礎であり、基本である。そして、それは時空を超えて「絶対に正しい」ものでなくてはならない。

 

 義務教育は、万人が受ける。しかも年齢的には幼く、人生で最も純粋かつ素直な時期である。この時期に、生涯を貫く人間としての根本価値観を樹立させることがかなえば二十年後の日本は変わる。義務教育期における道徳教育ほど大切なものは他にあるまい、と私は確信している。

 

 ところで次の文言は、このような私の考えからは疑問だ。

 

 「特定の価値観を押し付けたり、主体性を持たず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものといわなければならない」―A

「多様な価値観の、時に対立ある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」―B

中央審議会答申(平成二十六年十月)

 

 私が言う「不動の元徳」は、「特定の価値観」であり、「押し付け」たいものである。それについては、ぜひともつべこべ言わず、つまり「主体性を持たず、言われるままに行動するよう指導したりすること」にしたいのである。―A

 

 「多様な価値観」ではなく、もっと根本的な「元徳」について確と教え込み、本人の中にその「不動の元徳」を樹立させたい。それが確立して初めて「多様な価値観」の善悪、当否を評価、判別、判定できると考えるからである。―B

<NO. 143 平成28年6月1日発行より>

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